財政と会計

 公会計関連ということで、本項では財政と会計について述べてみたいと思います。財政と会計の区分は結構難しいところですが、政治の影響という要素を加味すると区分しやすいのかもしれません。すなわち、

 財政は政治的な影響の下にあるのに対して、会計は政治から自律したものとして考えられてきているのです。

この関係は、例えば、わが国明治憲法においても、また20世紀初頭の米国においてもみられるところです。

 明治23年に施行された明治憲法においては、第6章で「会計」という章を設けています(第62条~第72条)。そこでは予算や租税などが定められており、内容的には「財政」と題するのがふさわしいものであるにもかかわらずです(因みに、明治憲法第6章と同じような内容の現行憲法の第7章は「財政」と題されています)。
この明治憲法はドイツの影響を受けて制定されました。当時、ドイツでは予算決定権をめぐり議会と行政府との間で確執がありました。このため、明治憲法においては、「財政」という国家経済を包括する用語を使用するのではなく、より行政執行的な印象を与える「会計」という用語を用いることとし、これによって議会の予算議定権を制限しようとしたという指摘があります。

 また、20世紀初頭の米国においては、議会は収入及び支出を調整する包括的な計画もなく支出決定を下しており、財政は政治的な影響の下にありました。このため、政治的な影響に振り回されないようにする観点から、行政手続としての会計が重視されるようになりました。そして、その一環として、予算の制度化が州政府等から始まり、1921年には連邦政府において予算・会計法が制定されました。
 その後も、米国においては行政手続としての会計が重視されてきました。例えば、第二次大戦後の行政改革の流れの中で1950年前後に2度にわたり設置されたフーバー委員会(連邦政府行政部機構委員会)や、1960年代から70年代にかけて流行をみたPPBS(Planning-Programing-Budgeting System)などの取り組みにおいては、政治的な影響に振り回されないようにする観点からの行政手続としての会計が重視されていました。

 因みに、米国における行政手続としての会計への注目は、1906年にニューヨーク市で市政調査会が設立され、予算についての検討がなされたことに始まります。このニューヨーク市の市政調査会は、当時の大都市化に伴う諸課題の解決のために設立されたと昔に聞いた記憶がありますが、ニューヨークの歴史をみると、1900年頃から20~30年間の街の発展はすさまじく、いたるところにその痕跡が感じられます。少しマニアックですが、当時の市政調査会活動を想像しながら街歩きをするのも楽しいものです。

 ともあれ、政治の影響の下にあらざるをえない財政と、自律した存在としての会計。
 それでは、ここでいう自律した存在としての会計とは何を意味しているのでしょうか。そこに入るものとして、借方や貸方に代表される財務会計はイメージしやすいと思いますが、それ以外のものとして何があるのでしょうか。 実はこの問題は100年以上前も今も変わらぬ課題であり続けていると思います。行政管理会計はこの悩ましい課題を抱え続けることとなるのでしょう。この点は本コラムでも順次述べていくつもりです。